京都芸大における「日の丸」掲揚問題に関する資料

「日の丸」が揚がった京都芸大正門 
 京都市立芸術大学においては、1998年3月の卒業式および4月の入学式に際して、美術・音楽両学部教授会など京都芸大構成員の意思を問うこともなく、評議会での事務局長の一方的な報告に基づいて「日の丸」が掲揚された。また、その後両学部教授会で圧倒的多数をもって可決された掲揚反対決議にもかかわらず、1999年1月の評議会では、学長の強い意向を受け、今後も「日の丸」掲揚を行なうことが正式に決定された。以下に掲載するのは、教員有志が1998年3月の卒業式に配布したビラ、その後広く賛同者を募って学長・両学部長に提出した「要望書」、京都市職労芸大支部が学長に提出した「要請書」、および、1999年1月にあらためて評議会で決定された「日の丸」掲揚に関して市職労芸大支部が市職労中央執行委員長と連名で学長に提出した「公開質問状」、その他である。この問題については、藤原隆男「京都芸大に日の丸は要らない」をも参照してほしい。

 なおその後、「日の丸」を国旗とし「君が代」を「国歌」とする「国旗及び国歌に関する法律」(平成11年法律第127号)が1999年8月13日に公布、即日施行されたが、京都芸大における「日の丸」掲揚はまさにそれを先取りするかたちで行われたのであり、そのことの問題性をここに記しておくことは、きわめて重要だろうと思われる。


京都芸大における「日の丸」掲揚の問題点(魚住洋一/1998年12月、1999年4月加筆)

卒業式における「日の丸」掲揚に関する教員有志の見解(京都芸大美術学部教員有志/1998年3月)

「日の丸」掲揚に関する「要望書」への署名のお願い(京都芸大教員有志/1998年4月)

「日の丸」掲揚に関する京都市職労芸大支部からの「要請書」(京都市職労芸大支部/1998年6月)

「日の丸」掲揚に関する学長への「公開質問状」(市職労芸大支部執行部・市職労中央執行委員長/1999年2月)

「日の丸」掲揚に抗議する(京都芸大美術学部教員有志/1999年4月)

  [参考]「日本人」と「日の丸」について──脱国民化のために(魚住洋一/1998年4月)



京都芸大における「日の丸」掲揚の問題点

魚住洋一 


 ここでは、京都芸大の卒業式・入学式に際しての「日の丸」掲揚の問題点を、個人としての立場から略述したい。ただし、この記述の一部には伝聞や推定のみに基づいた箇所があることを、あらかじめ断わっておきたい。

 ことの発端は、1998年3月11日京都芸大の最高決議機関である評議会において、今後の卒業式・入学式の際には正門脇に「日の丸」を掲揚するという案件が了承されたことに溯る。これは、美術学部・音楽学部教授会の審議も経ず不意打ち的に行なわれたことであった。しかも、その後行われた市職労芸大支部と事務局との話し合いの際に明らかになったことだが、この評議会では、市田幸雄事務局長から、今後入学式・卒業式の際には正門脇のポールに国旗・市旗を掲揚することとする旨の報告があり、それがその場で了承されるという経緯を辿ったというのである。驚くべきことに、「日の丸」掲揚の案件は、評議会での「審議事項」ですらなく、審議されることもなくただ聞き置くだけの「報告事項」として処理されたらしいのである。組合への事務局長の答弁によると、それが一方的な「報告」となったのは、「日の丸」は「飾りのようなもの」にすぎず、その掲揚は「教育・研究には関係がない形式的な施設管理と儀礼上のことであり、施設管理を与かるのは事務局である」との見解に基づいてのことであるらしい。事務局長は、式典に際しての「日の丸」掲揚がひとえに「会場の設営」の問題として事務局長の専決事項に属し、その裁量内で十分処置しうる事柄であるから、教育機関としての大学の自治とは無関係であり教授会や評議会での審議を経なければならないものではないと強弁したいのだろう。そのためもあって、この評議会では、一部反対はあったようだが、この問題は何ら「審議」されることなく了承されたようである。

 こうした暴挙ともいうべき事態に対して、美術学部教員有志は、「日の丸」掲揚が「大学の自治」を踏みにじるきわめて非民主的な仕方で決定されたことに抗議する内容の「卒業式における〈日の丸〉掲揚に関する教員有志の見解」と題するビラを、3月20日「日の丸」のもとで催された卒業式に際して配布した。さらに、4月になり、皮肉にも「日の丸」掲揚を最後の「仕事」として退任した上山春平学長に代わり新たに西島安則学長が着任した。京都芸大教員有志は、この学長交代に一縷(いちる)の望みを託しつつ、今後学内の議論と合意を経ずに「日の丸」を掲揚することのないよう要望する「要望書」をあらためて新学長および美術・音楽両学部長に提出することとし、「〈日の丸〉掲揚に関する〈要望書〉への署名のお願い」と題するビラを、「日の丸」がふたたび翻った4月10日の入学式の際に配布してこの「要望書」への賛同の署名を求め、さらに藤原隆男・魚住洋一のホームページ上でも広く署名を募(つの)った。また、5月28日には、京都市職労芸大支部臨時大会が開催され、「日の丸」掲揚についてはその結論を学内の民主的な手続きを踏まえた議論に委ねること、また結論が出るまで式典で掲揚を行なわないことを求める「要請書」を学長に提出するという議案が採択され、6月2日この「要請書」は学長に提出された。さらには、聞くところによると、6月の音楽学部教授会では、「日の丸」掲揚そのものに反対する決議が圧倒的多数で可決されたそうであり、また美術学部教授会においても、今回の「日の丸」掲揚を既成事実とせず、今後の掲揚については評議会においても十分議論を尽くすよう求める、といった内容の評議会への「要請」を行なうとの決議が7月に、また「日の丸」掲揚反対の決議が11月に、それぞれ圧倒的多数をもって可決されるといった進展を見た。

 ところで、両学部教授会の反対決議にもかかわらず、学長は「日の丸」掲揚が認められなければ辞任も辞さない決意であるとの風説も流れていたが、聞くところによると、年が明けた1999年1月19日の臨時評議会では、「日の丸」掲揚の可否が採決され、僅少差で掲揚が可決されるというドンデン返しの顛末となったようである。しかし、これが事実ならば、両学部から選出され両学部教授会の意思を代表すべき評議員の過半数は、「大学の自治」の圧殺に自らすすんで加担したといえよう。今回こうしたかたちで「日の丸」掲揚が決定されたのであれば、それは、事務局からの「報告事項」に問題を摩り替えた前学長のもとでの掲揚決定と比べ、評議会での審議という一定の手続きを踏んでおり、一見ルールに則った決定であるかに見えるが、これは、「掲揚が認められなければ辞任する」との学長の恫喝(どうかつ)に評議員たちが屈した結果でしかなく、京都芸大構成員の意思を「民主的」に汲み取った結果ではありえない。両学部教授会の「日の丸」掲揚反対決議にあえて逆らう評議会のこの決定により、今後京都芸大では入学式・卒業式に際して「日の丸」が掲揚されることとなった。市職労芸大支部執行部は、今回の「日の丸」掲揚について明確な回答を求めるため、支部組合員の了解を得たのち、市職労中央執行委員長との連名で、1999年2月10日学長に「公開質問状」を提出したが、期日を過ぎても学長からの回答はなく、この質問状は事実上黙殺されたかたちとなった。こうした経緯からも知られるように、京都芸大の前途はきわめて多難で、わずかな展望さえ見出しがたい状況にある。京都芸大の民主的な決定システムと「大学の自治」は、この1年の間に瀕死の状態に追い込まれてしまったといえよう。

 その後の経過について略述すると、1999年3月23日に「日の丸」が翻るもと開かれた卒業式では、教員有志が「日の丸」掲揚に抗議してビラ撒きを行なったが、「〈日の丸〉掲揚にNOを言いたい京都学生有志」も卒業式での「日の丸」掲揚に異議を唱えるビラを撒くに至った。さらに、1999年4月9日の入学式の際にも、「〈日の丸〉掲揚に抗議する」と題するビラを教員有志が撒くとともに、「〈日の丸〉掲揚にNOを言いたい京都学生有志」によるビラ撒きも行われた。その際、或る音楽学部学生は「1.掲揚をやめる意志があるか。2.1が可能でない場合は、その理由は何か。3.また、〈日の丸〉掲揚を決定した経緯はどのようなものであったのか」との「質問状」を学長に提出した。たとえ一部にせよ、学生の間にも「日の丸」掲揚反対の動きが出てきたようである。

 さて、以下ではもっぱら京都芸大におけるこの「日の丸」掲揚の問題点を略述したい。ただし、問題点の多くは、前述の「公開質問状」に指摘されているので、ここでは、問題を概観するにとどめたい。

 まず述べておきたいのは、今回の京都芸大における「日の丸」掲揚が、いわゆる「大学の自治」の蹂躪にとどまらず、芸術制作には不可欠の「表現の自由」を脅かしかねない事態だということである。京都芸大というこの公的施設の存在意義は、政治的・社会的・経済的制約に囚われない自由な環境のもと、芸術の新たな可能性を実践的・理論的に追求することにある。そのためにもいわゆる「大学の自治」が確保されねばならず、日本国憲法にも謳われている「表現の自由」が保証されねばならない。今回の「日の丸」掲揚は、そうした京都芸大の存在理由を揺るがしかねない要件を孕んでいるのではなかろうか。「日の丸」は法的に国旗と定められていないだけでなく、「天津日嗣命(あまつひつぎのみこと)のしろしめす」皇国日本を象徴し、国民を天皇の赤子として侵略戦争に駆り立てた過去を背負っている。そうした「日の丸」を掲揚することは、きわめて政治的・イデオロギー的な選択を行なうことにほかならず、政治的制約に囚われない自由な芸術制作・研究を脅かす可能性を孕んでいるといわねばならない。その意味で、今回の「日の丸」掲揚は、富山県立近代美術館で起きた事件と通底するものがあろう。1986年富山県立近代美術館は、大浦信行の昭和天皇の写真を用いたコラージュ10点が県会議員の批判や右翼の抗議を受けたのに狼狽し、それらを売却し図録も焼却してしまったのだが、それに抗議しての原状回復を求める訴訟に関して「表現の自由」を認める原告勝訴の判決が富山地裁でこの12月にようやく下された。天皇の写真はこの国ではいまだに「御真影」であり、「菊のタブー」が厳として存在しているのである(小倉利丸「天皇の尊厳を押しつける自治体との闘い──富山県立近代美術館裁判一審判決をふまえて」参照)。「日の丸」掲揚の強行は、天皇の写真の「御真影」化に相通じ、「表現の自由」を冒す「検閲」に繋がると思われてならない。

 ここ京都芸大における「日の丸」掲揚が孕んでいるもう一つの問題は、「公僕」であるはずの「官」の横暴ということであろう。彼らは、いまだに「お上(かみ)」意識が抜け切らないのか、「日の丸」掲揚の一件からも知られるように、いわゆる「大学の自治」を狭義の「教育・研究」に関わる事柄のみに制限し、さまざまな案件を独断で処理しようとしているかのようである。また、「予算」を彼らに牛耳(ぎゅうじ)られているからという理由で、彼らに媚び諂(へつら)い、「官」の横暴を助長させている評議員や教員もなかには居るとも聞く。さらにまた、「日の丸」掲揚を決定したとされる1991年1月19日の臨時評議会では、同時に、学長の権限を強化する「副学長制」の導入もまた決定されたとの噂も耳にされるが、もしこれが事実なら、この企ての背後に見え隠れするのは、京都市の官僚を天下りさせるか、あるいは、京都市の意向に唯々諾々(いいだくだく)として受け入れる京都芸大出身者を副学長とすることで、市当局との「パイプ」を密にしつつ京都芸大の官僚支配をより強化しようとする策動であろう。官主導の「日本型システム」の矛盾が露呈し、その克服が求められている今日、こうした旧態依然としたありかたに京都芸大がなおも甘んじていることは、きわめて深刻な事態だといわねばならない。こうした昨今の京都芸大の動向は、何ものにも拘束されず芸術の可能性を追求する場としての京都芸大のありかたそのものを自己否定することにもなりかねないのではなかろうか。

 ここで付け加えておきたいのは、大学設置者たる京都市からの「日の丸」掲揚についての要請の有無についてである。市職労芸大支部と事務局との話し合いの際、事務局長は、「設置者からの要請はなかった。大学独自の判断で行なったことである」と回答した。しかし、同時に彼は、3月11日の評議会においては、学校設置者たる京都市からの「強い要請」を理由として、入学式・卒業式に際しての「日の丸」掲揚を求めたことを認め、さらに議事録の文面にもそう明記されていることをも併せて認めたのである。この事務局長の許しがたい二枚舌のどちらが事実なのだろうか。要請がなかったのが事実ならば、事務局長は「日の丸」掲揚を強行するために評議会という公の席で虚言を弄(ろう)したことになるし、また、要請があったのが事実ならば、この要請が市職労にさえ隠さねばならない「不正」なものであることになるばかりか、市当局が「大学の自治」への不当な干渉を公然と行なったということにもなる。いずれにせよ、事務局長の公の席でのこの二枚舌はその責任を問われてしかるべきはずのものだが、現在に至るまで、評議会においては事実の確認も責任の追求もまったくなされていないようである。ちなみに、現在の桝本ョ兼京都市長は、「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を入学式・卒業式の際に行なうのが「望ましい」から行なうよう「指導する」と変更された1989年の学習指導要領改悪の際の京都市教育長であり、その際彼は「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱の強行をきわめて強く命じたとも聞く。このことを考えれば、京都市が京都芸大の式典での「日の丸」掲揚について「強い要請」を求めたというのも十分ありうることであろう。現在、京都市は、祝典会場での「日の丸」および市旗の掲揚を基本原則とし、それを京都芸大以外でも着実に実施しているのである。その意味で、京都芸大の今回の「事件」は、1998年春の「所沢高校事件」とも通底するものがあろう(「卒業記念祭・入学を祝う会をめぐる所沢高校関係資料」参照)。

 ところで、京都芸大で「日の丸」掲揚が問題化している状況にもかかわらず、京都芸大の前身である京都市立絵画専門学校・美術工芸学校の戦没者追悼会が1998年11月14日執り行われた。これは、両校の卒業生が作る実行委員会によって1年前から企画されたものだそうで、上村松篁京都芸大同窓会長も出席し、同窓生戦没者123人を慰霊したとのことである。帝国主義的侵略の加害責任を棚上げにして、「お国のために死んだ」自国の死者のみを追悼しようとするこうした企ては、独善的で排他的なナショナリズムを煽り立て、あの「大東亜戦争」を正当化することにも繋がりかねないものである。しかし、今までまったく行なわれなかったこうした行事が突如企画されたのはなぜだろうか。その背後に今回の「日の丸」掲揚と共通の政治的な意図を嗅ぎ取るのはあながち間違いではあるまい。


卒業式における「日の丸」掲揚に関する教員有志の見解


 以下に掲載するのは、1998年3月20日の京都市立芸術大学卒業式・学位記授与式に際して、美術学部教員有志が配布したビラである。

 京都市立芸術大学を卒業・修了される皆様、御父兄の皆様、在校生の皆様、教職員の皆様、

 本日の卒業式・学位記授与式にあたり、本学正門前に「日の丸」の旗が掲げられているのをご覧になられたかと思います。昨年度までは、入学式・卒業式に「日の丸」が掲揚されることはありませんでした。それが、今年度は、美術学部・音楽学部教授会の審議を経ることもなく、卒業式を前にして、突然、「日の丸」の掲揚が決められてしまったのです。

 経過をもう少し詳しく申しますと、学長・両学部学部長などから構成される、本学の最高議決機関である評議会が、3月11日に開かれたのですが、その席で、事務局より京都芸大の設置者たる京都市の指導により、卒業式に際して「日の丸」を会場に掲揚するように、との指示がありました。それに対し一部反対はあったものの、卒業式会場ではなく正門に掲揚するならよろしかろうとの意見が大勢を占め、「日の丸」掲揚に決まったという次第です。この件は、美術学部・音楽学部教授会に議題として提出されることもなく、昨日、3月19日になってはじめて評議会の報告事項として一方的に事後承諾を求められたにすぎません。そのため、「日の丸」掲揚の是非を話し合ったり、掲揚を見合わせたりするのに必要な時間的な余地はもはやなく、本日、正門前のポールに、大雨のなかしょぼたれた「日の丸」の姿を目にすることになってしまいました。

 昨日、3月19日の美術学部教授会においては、この問題についてさまざまな疑問や意見が出されました。たしかに「日の丸」には政治的・歴史的に大きな問題が含まれており、その掲揚の是非を軽々に判断することはできないと思われます。しかし、昨日の美術学部教授会で多くの教員から指摘されたように、今回の「日の丸」掲揚に関しての何よりの問題は、その是非について教授会などでの審議をまったく経ず、京都芸大の構成員の意思がまったく反映されないまま、一方的にしかも唐突にそれが決められてしまったということにあります。京都芸大の設置者はたしかに京都市ですが、大学という組織はその運営に関して自治権が認められているのもまた事実です。今回の一件は、設置者の指導の名の下にそうした大学の自主的な運営を阻害するものであった、と言わざるをえません。

 ちなみに、数年前、入学式・卒業式に「日の丸」を掲揚する件についての打診が、事務局から両学部教授会に出されたことがありましたが、そのときは慎重論が大勢を占め、掲揚は見送られました。そうした過去の経緯を考えても、今回の「日の丸」掲揚に至る手続きには、おおいに問題があるように思われます。

 私たち美術学部教員有志は、今回十分な学内論議を経ず「日の丸」掲揚に至ったことにその責任の一端を痛感するとともに、京都芸大における今後の「日の丸」掲揚に関してはこれを前例とせず、その是非について十分な議論を尽くすよう努める所存です。

  1998年3月20日

 京都市立芸術大学美術学部教員有志

   赤松玉女、魚住洋一、小清水漸、小林信之、中原浩大、藤原隆男、松井紫朗(アイウエオ順)



「日の丸」掲揚に関する「要望書」への署名のお願い


 以下に掲載するのは、京都芸大教員有志が、1998年4月10日の入学式の際、学長および美術・音楽両学部長宛ての「要望書」への賛同の署名を求めて配布し、また藤原隆男・魚住洋一のホームページにも掲載した文書である。4月21日、それまでに集まった84名の署名を添え、この「要望書」を学長および美術・音楽両学部長に提出したが、その後さらに、合わせて114名の署名を得ることができ、6月25日をもってとりあえず署名活動を終えることとした。署名された方々に対して、ここで感謝の意を表しておきたい。

 3月20日の卒業式につづき、4月10日の入学式においても、教員や学生の意向を無視して日の丸が掲げられました。入学式・卒業式に際しての日の丸掲揚は重大な問題をはらんでいると考え、私たちは新学長および美術・音楽両学部長に対する「要望書」の提出に思い至りました。これは、「要望書」にも触れられているように、けっして直接日の丸の是非を問題にしようとするものではありません。

 オリンピックでも学校でも、これだけ日の丸が一般化しているのだから、わが大学で掲げてもかまわないのではないかと考える人は多いでしょう。あるいは、それならどうして正式な議論と議決を経ることなく、突然日の丸掲揚を強行するようなことを行なったのか、そういう姑息なやり方自体、かえって国旗を冒涜することではないか、と感じた方もいるでしょう。あるいは、過去の戦争とのつながりを含め、国際的観点から日の丸の問題性を指摘する人もいるかもしれません。また、もちろん、日の丸は法律で正式に定められた国旗ではなく、いまなお日本で多くの人が日の丸のあり方に疑問を感じているのだから、日の丸掲揚は慎重にすべきだ、といった意見をもつ人も少なくないでしょう。

 大学の正門に日の丸を掲げることは、大学の立派な意思表示である以上、このようなさまざまな議論を戦わせ、正式の議決を経たのちに日の丸掲揚がなされるべきことは当然のことです。今回の件に関して上村美術学部長は、「教育機関としての大学の自治とは無関係」と公言し、校門等、大学施設は設置者たる京都市の所有物として、事務当局の管轄内にあるとのお考えのようです。しかしこうした考えを突き詰めれば、京都市の施設である教室内での授業から、ギャラリーでの作品展示に至るまで、設置者の意向を配慮せねばならないことになり、教育研究の自由と芸術表現の自由を侵害する検閲への道が開かれることにもなりかねません。

 今回のケースのように、大学の意思決定機関である評議会や教授会に対して、「報告」というかたちでの承諾のみを求め、実質的な議論を封じ、学生にいたっては一言の通知もしないという大学当局のやり方は、きわめて非民主的で、大学自治の原則を踏みにじる暴挙としかいいようがありません。設置者である京都市の意向の名のもとに、このようなやり方を常態化させることは、教授会や大学自治の将来にとって、けっして許すべきことではありませんし、したがって今回の日の丸掲揚を既成事実化してはならないと考えます。こうした観点から、今後の日の丸掲揚を見合わせるよう、以下の要望書を新学長および両学部長宛てに提出したいと思います。賛同し署名してくださる方を募るとともに、周囲の方々(教職員、学生、院生、卒業生等々)へも署名を呼びかけてくださるようお願いいたします。


要望書

学長 西島安則様

音楽学部長 蔵田裕行様

美術学部長 上村淳之様


 3月20日の卒業式につづき、4月10日の入学式においても、芸大正門に日の丸が掲げられました。

 これは、京都市の意向を強くうけた大学当局が、教授会をはじめ正規の決定機関における議論を俟たずに、また学生には通知することさえなしに、強行したものであります。わたしたちは、大学当局のこうしたやり方に抗議するとともに、学内の民主的な手続きを経ず、強硬な手段で決定がなされたことに強い懸念を表明いたします。

 まず申し上げておかねばならないのは、わたしたちは必ずしも日の丸そのものに反対だという意思表示をしているのではないということです。日の丸をはじめ、ナショナル・アイデンティティにかかわる問題は、芸術家や研究者にとって多様な見解が可能であり、とくに過去の経緯を考えれば、きわめて慎重にあつかうべき問題だと考えられます。とりわけ今日、大学がますます国際社会に開かれたあり方を模索している時期にあって、公の議論を排し、内輪の論理を強制することは、内外の良識あるひとびとに不審の念をいだかせることにもなりかねません。

 教育研究の自由のために自治権を認められた公共機関である大学は、一部のひとのものでもなければ、設置者の自由にできるものでもありません。わたしたち大学人にとって、大学の自治とはまさに魂ともいうべきものであり、たとえば経済的・実利的観点から大学の自治権を放棄するようなことがあれば、それは金のために魂を売ることに等しいといわねばなりません。

 今後は、大学の主催する行事、式典等において、学内の議論と合意を経ずに日の丸を掲揚することのないよう、強く要望いたします。

署 名 (1998年6月25日現在)
[教員(非常勤を含む)] 魚住洋一、小清水漸、小林信之、藤原隆男、松井紫朗、他、計30名
[学生・院生
(聴講生を含む)] 55名(氏名省略)
[卒業生・父兄・その他] 29名(氏名省略)



「日の丸」掲揚に関する京都市職労芸大支部からの「要請書」


 以下に掲載するのは、1998年5月28日に開催された京都市職労芸大支部臨時大会において採択され、6月2日京都芸大学長に提出された「要請書」である。

要請書

京都市立芸術大学学長 西島安則様

1998年5月28日 

京都市職労芸大支部 

 3月20日の卒業式および4月10日の入学式に校門のポールに日の丸が掲げられました。これは、京都市の強い要請を受けた大学当局が、美術・音楽学部教授会をはじめ、京都芸大構成員の意思を問うこともな一方的に強行したものであります。大学当局は式典を厳粛に行う為という理由で日の丸掲揚を今後も続けるということですが、学内の民主的な手続きも経ないで、この日の丸掲揚が既成事実化されようとしていることに私たちは強い懸念を表明します。

 私たちは大学の教員であると同時に、芸術家・研究者として、個々のアイデンティティに基づき、それぞれが、この大学において教育・制作・研究活動を行っています。京都芸大というこの公的施設の存在意義は、構成員である私たちそれぞれが個々の研究を深める一方で、それを閉鎖的な単なる個人の成果に終わらせず、さらに異なった専門分野、背景を持った者と共同で研究を進めることにより、新たな芸術の研究領域を開拓することにありましょう。そのためにはまず、日本国憲法にも謳われている「表現の自由」が保証されること、社会的・経済的制約にとらわれない開放的な研究環境が不可欠です。今日では芸術の研究においても他の分野同様、国際的なつながりなくして語れませんが、こうした教育・研究活動を続けていく上で、とりわけナショナル・アイデンティティについては慎重に扱われなければならない問題であると私たちは認識しています。一方、日の丸については、天皇制のもと、日本軍国主義によって、侵略戦争のシンボルとして利用された歴史を持っており、それが侵略戦争であったかどうかという歴史解釈についてすらも周辺諸国を巻き込んで議論されているのが現状です。

 こうした観点からも明らかなように、この日の丸掲揚の問題は、大学当局が言うような「大学の自治」あるいは「大学での教育」とは無関係の、単なる儀礼上の問題などでは決してなく、本大学の存在意義をも脅かしかねない大きな問題であると私たちは認識しています。

 大学の自治を尊重し自由な研究環境を目指す私たち京都市職労芸大支部は、以上の理由につき、この日の丸掲揚に関して大学当局が、そのことの重大さを正しく受け止め、民主的にこの問題についての議論が出来る場まで差し戻すこと、また結論が出るまでについても、式典で日の丸掲揚を行なわないよう要請するものです。


[補記]この「要請書」は、1998年6月21日に発行された「京都市職新聞」(京都市職員労働組合発行)第712号に、次に転載する「芸術大学の自治破壊、教授会軽視 〈日の丸〉掲揚をごり押し!」と題する記事とともに、全文が掲載された。

 京都市立芸術大学では、3月20日の卒業式、4月10日の入学式で正門横のポールに「日の丸」が掲揚されました。
 桝本市長は就任して以来、自治記念式典をはじめとした各種の記念式典において「日の丸」「君が代」を国旗、国歌として強要し、今回の芸術大学での「日の丸」掲揚もその一環といえます。
 今回は、芸大事務局が「大学設置者(京都市)からの強い要請」があったとして学長懇談会である「部局長会」に提案。しかも学内の最高機関である「評議会」には報告事項として提案。その後の各学部教授会においても反対意見が相次ぐ中、強行されました。式当日には教員有志が「見解」ビラを配布し、その後要望書を提出するなどの動きがあり、今回市職労芸術大学支部として、大学自治の尊重と民主的討論を要求する要請書を提出しました。



「日の丸」掲揚に関する学長への「公開質問状」


 京都芸大では、両学部教授会の反対決議にもかかわらず、学長の強い意向を受け、1999年1月19日評議会で「日の丸」掲揚が決定された。以下に掲載するのは、これに関して、京都市職労芸大支部執行部が、支部組合員の了解のもとに、京都市職労中央執行委員長と連名で1999年2月10日に学長に提出した「公開質問状」である。しかし、期日を過ぎても学長からの回答はなく、この質問状は現在のところ黙殺されたままである。

公開質問状

京都市立芸術大学学長 西島安則殿

京都市職労芸大支部執行部 

京都市職労中央執行委員長 河内一郎 

1999年2月10日 

 私たちは、評議会における今回の「日の丸」掲揚の決定につき、それが、京都芸大における民主的な決定システムと「大学の自治」のありかたを損なう恐れがあることを憂慮する立場から、以下の5点についての学長の判断と認識を、文書にてすみやかに回答していただくことを望むものです。これらの件について、学長から明確かつ率直な御回答をいただくことこそが、学長と教員相互の信頼関係の回復に繋がり、今後の困難な情勢に対処しうる京都芸大の「総意」の形成の一助ともなると考える次第です。

 (1)1999年1月19日の臨時評議会における「日の丸」掲揚の決定は、美術・音楽両学部教授会でのそれぞれ圧倒的多数をもって可決された「日の丸」掲揚反対決議を無視するかたちでなされたものでした。この点に関して私たちは、強い危惧の念を抱くものです。本学の代表たる学長および本学の最高議決機関たる評議会は、京都芸大構成員の「総意」に則って事案の決定に当るべき立場にあるのではないでしょうか。そこで、改めてお伺いしたいのは、学長は、学長および評議会が両学部教授会の意思に関わりなくさまざまな案件の決定を行ないうるとお考えなのかどうか、ということです。評議会において決定される多くの案件は、直接的・間接的に本学における教育・研究のありかたに影響を及ぼすものである以上、私たちはそれらの案件について両学部教授会の意思は最大限尊重されてしかるべきだと考えておりますが、この点についての学長のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

 いずれにせよ、両学部教授会の明確な意思の表明に逆らうかたちで大学としての決定がなされるならば、そもそも教授会の存在理由そのものが否定されてしまうといわざるをえません。今後こうしたかたちで両学部教授会の意思を無視しつつ大学の重要事項の決定が行なわれていくならば、学長と教員相互の溝はますます深まり、教育・研究機関としての京都芸大の運営そのものに重大な支障が生じることも大いに懸念されるところです。

 (2)ところで、市職労芸大支部が、「日の丸」掲揚についてはその結論を学内の民主的な手続きを踏まえた議論に委ね、結論が出るまで式典で掲揚を行なわないことを求める「要請書」を1998年6月2日学長に提出した際、学長は、「日の丸掲揚が決定された手続きについてはまずいところがあったと思うので、それについては今後改善していきたい」と述べ、今後重要事項の決定を行なう際にはできるだけ民主的な手続きを踏みたいとの意向を表明なさいました。ところが、今回の「日の丸」掲揚決定の経緯を考えますと、1998年12月の評議会において、学長は、両学部教授会の反対決議にもかかわらず、「日の丸」掲揚が否定されるなら辞任も厭わないと強い決意を表明し、両学部教授会に対してこの件の再考を促したと聞きます。しかし、辞任をほのめかしつつ「日の丸」掲揚の再考を両学部教授会に迫るという振る舞いをすることが、はたして「民主的」な手続きにかなったものといえるでしょうか。この点について、学長の見解を伺いたいと思います。

 (3)また、「日の丸」掲揚が決められた1999年1月19日の臨時評議会では、「副学長制」の導入も決められたそうですが、1998年12月の評議会で突然提起されたこの「副学長制」については、京都市職労本部からの情報によれば、12月の評議会以前にすでに京都市への打診がはかられていたとのことです。一方では、学内での審議に先立って秘密裏にそうした当局への打診を早々と行ないながら、他方では、両学部教授会や評議会での審議の時間もほとんど与えぬまま決定を急がせるという進め方そのものが、そもそも順序が逆であり、民主的な決定の手続きに反するものであると考えますが、この点に関する学長の見解をお伺いしたいと思います。

 (4)次にお伺いしたいのは、「日の丸」掲揚が京都芸大における教育・研究との関係の有無について学長がどうお考えなのか、ということです。1998年7月6日に京都市職労芸大支部が行なった事務局との公式の話し合いの席で、市田幸雄事務局長は、「日の丸」は「飾りのようなもの」にすぎず、その掲揚は「教育・研究には関係がない形式的な施設管理と儀礼上のことであり、施設管理を与かるのは事務局である」との見解に基づいて、式典に際しての「日の丸」掲揚がひとえに「施設管理」の問題として事務局長の専決事項に属し、その裁量内で十分処置しうる事柄であるから、教育機関としての大学の自治とは無関係であり教授会や評議会での審議を経なければならないものではない、との見解を示しました。上山春平前学長のもとでの1998年3月11日の評議会において、入学式・卒業式の際の「日の丸」掲揚問題が、評議員による審議を必要とする「審議事項」ではなく、単なる事務局長からの「報告事項」として処理されたのは、そうした理由によるものと考えられます。学長もまた、事務局長と同じく、「日の丸」掲揚が「教育・研究には関係がない形式的な施設管理と儀礼上のこと」であるとお考えなのでしょうか。また、もし「日の丸」掲揚があくまでも儀礼上のこととお考えならば、式場での掲揚を見送るという判断をされた理由を是非お聞かせください。

 (5)最後にお伺いしたいのは、「日の丸」掲揚について大学設置者たる京都市からの要請があったかどうか、についての学長の認識です。1998年7月6日の組合との話し合いの席で、「日の丸」掲揚については大学設置者たる京都市からの要請があったのではないか、との組合側からの質問に対し、事務局長は、「設置者からの要請はなかった。大学独自の判断で行なったことである」と回答し、また「京都市各機関での掲揚の状況、庁内職員間での話から強い要請があるような情勢だと判断した」とも述べました。しかし、同時に彼は、1998年3月11日の評議会においては、大学設置者たる京都市からの「強い要請」を理由として、入学式・卒業式に際しての「日の丸」掲揚を求めたことを認め、さらに議事録の文面にもそう明記されていることをも併せて認めたのです。公の席での事務局長の発言のどちらが事実だと学長は認識しておられるのでしょうか。また、まったく相反する発言を公の席で行なった事務局長のこの二枚舌の責任を、事務局長を管轄する立場から追求したことがあるのかないのかについても明確な回答をお願いしたいと思います。

 ところで、もし「設置者からの強い要請」がなかったとの認識をおもちならば、「日の丸」掲揚を行なわねばならないとお考えになるその理由を是非述べていただきたいと思います。また学長は、京都芸大における「日の丸」掲揚は京都市民のマジョリティの意思でもある、と評議会の席で発言されたそうですが、なぜそう判断されたのか、その根拠もお聞かせ願いたいとも思います。

 以上の5点につき、2月25日までに文書による回答を行われることを学長に切に望む次第です。


[補記]この「公開質問状」については、1999年2月21日に発行された「京都市職新聞」(京都市職員労働組合発行)第734号に、この1年にわたる京都芸大の「日の丸」掲揚の経緯に関する記事とともに、その要旨が掲載された。



「日の丸」掲揚に抗議する


 以下に掲載するのは、1999年4月9日の入学式に際して京都芸大美術学部教員有志が配布したビラである。ほぼ同文のビラが1999年3月23日の卒業式に際しても配布されたが、それについてはここでは省略する。

 新入生、在学生、教職員のみなさま

 本日の入学式で、正門横のポールに日の丸が掲揚されました。京都芸大では、昨年3月より、卒業式・入学式において、非民主的な手続きによって「日の丸」が掲揚されています。

 わたしたち教員有志は、内外の学生がともに学ぶ大学という教育の場で、「日の丸」という形でナショナル・アイデンティティを強制することに反対します。国家や文化をどのように捉えるかという問題は、芸術表現や研究と深くかかわっており、慎重に扱わなければならないことがらです。大学当局は、なぜ掲揚を行うのかについても明解な理由を示さず、「日の丸」は儀式上の飾りであり教育と無関係であると主張しますが、こうした姿勢は民主的な大学自治の精神さえ脅かすものと考えます。

 わたしたち教員有志は、今回の「日の丸」掲揚に強く抗議するとともに、今後も、決定の白紙撤回と、学生・職員を含めた芸大の民主的な決定システムの確立を求めていく所存です。

  1999年4月9日

 京都市立芸術大学美術学部教員有志

   魚住洋一、藤原隆男、他、計7名

※ 裏面に解説があります。あわせてお読みください。


解説 ――「日の丸」掲揚に至った経緯

1998年初め
 部局長会(非公式な学長懇談会)で、大学設置者の京都市から強い要請があったとして日の丸を掲揚することが提案される。強い反対意見のため式場での掲揚は見送り、正門横のポールに掲揚することが決まる。
1998.3.11
 評議会(学長を議長とする大学の最高決議機関)で日の丸掲揚の件が報告される。一部の評議員から疑義が出たものの、日の丸は単なる飾りだし正門横ならいいのではないかという意見が大勢を占め、審議もされなかった。
1998.3.17/3.19
 卒業式の直前になって、日の丸掲揚が、既に決まったこととして音楽・美術の両学部教授会に、評議会報告の形で知らされる。
 学生にはいっさい通知なし。
1998.3.20
 卒業式。数十年ぶりに芸大に日の丸が掲揚される。
1998.4.10
 退任した上山学長に代わって就任した西島新学長のもと、入学式においても日の丸が掲揚される。
1998.5
 教員有志が、日の丸掲揚の是非について学内で民主的に議論することを求めて署名を集め、学長に提出。
 いっぽう、事務局は、設置者からの要請があったどうかについて前言を翻し、設置者からの要請はなかった、大学独自の判断である、と発言。
1998.6
 音楽学部教授会で、日の丸掲揚そのものに反対する決議が圧倒的多数で可決。
1998.7
 美術学部教授会で、今回の日の丸掲揚を既成事実とせず、日の丸は単なる形式的なものではないと考えるので今後の掲揚については評議会においても十分議論を尽くすよう求める、という評議会への要請決議を圧倒的多数をもって可決。
1998.11
 美術学部教授会で日の丸掲揚反対の決議が圧倒的多数をもって可決。
1998.12
 学長が、日の丸は儀式上の飾りであるとして、その掲揚を評議会で提案。受け入れられない場合、辞任することをほのめかしつつ、両教授会に承認を迫る。
1999.2
 臨時評議会で、「日の丸」を揚げる理由が不明確なまま、掲揚が僅少差で決定。
 学生には通知も説明もなし。

(文責 藤原)



[参考]
「日本人」と「日の丸」について──脱国民化のために

魚住洋一 


 ここで取り上げたいのは、「日の丸」掲揚が孕む問題についてである。「冷戦体制」の終結後、政治・経済のグローバリゼーションと国境を越えた人口の流動化が急速に進行するなかで、さまざまな地域でナショナリズムとレイシズムが台頭しつつあり、日本においても、歴史の「物語」の独善的な改竄(かいざん)を企てる「自由主義史観」など、排他的なナショナリズムの動向がきわめて顕著となっている。所沢高校や京都芸大での「日の丸」掲揚もまた、そうした動向と軌を一にしたものと思われる。「日の丸」掲揚に関してとりわけ問題なのは、それが煽り立てるナショナリズムではなかろうか。なお、「日の丸・君が代問題」については、藤原隆男「京都芸大に日の丸は要らない」の「関連ページへのリンク」をも参照されたい。

1.「日本人」であること

 「日の丸」と「君が代」が国旗・国歌として法的に定められていないことはひとまず措く。それらの掲揚や斉唱を通して求められているのが、われわれの「日本人」であることの自覚であることは明らかである。一般に国歌・国旗が担う役割は、いわゆるナショナル・アイデンティティの再認、何らかの国民共同体への帰属の再認にあると云えよう。しかし、同じ国民というだけで見ず知らずの人々との間に築かれるこの奇妙な共同体は、けっして自然に成り立つものではなくむしろ「国語」の伝授や国史の「物語」を通して人工的に作り上げられた「想像の共同体」であり、その人工性のためにたえず再生されつづけなければならない。国旗や国歌もまたそうした「国民」形成のための装置なのである。

 ところで、国民であるとはどういうことか。たとえば、日本国民から「在日」朝鮮・韓国人や外国人労働者が排除され、その政治的権利も剥奪されていることからも知られるように、国民であることの背後には排除の論理が働いている。いわば「われわれ」を作り上げるためには、そこから排除されるべき「かれら」を見出さねばならないというわけであろう。国民共同体にはつねにこうした排他性が纏(まと)いついている。そしてこの排他性はいかなる雑種性も許さない。われわれは、同時に日本人であって韓国人であることはできないのである。たとえば「在日」朝鮮・韓国人は、日本国籍の取得を巡って日本への「同化」か日本からの「排除」か、という二者択一のディレンマに陥るのである。

 私は誰かと問うときのわれわれのセルフ・アイデンティティは、われわれが織りなすさまざまな具体的社会関係から規定され、その社会関係の複綜性に応じて、われわれのアイデンティティは本来、多様なものの雑居を許すハイブリッドな性格をもっているはずである。ところが、「国民」としてのナショナル・アイデンティティは、こうしたわれわれのありかたを圧殺し、われわれを同じ「日本人」という一枚岩的な均質性のなかに封じ込めてしまう。この封じ込めによって、われわれは同じ日本人として、同じ慣習や嗜好、同じ考え方や感じ方をもつ「共感の共同体」の一員であると観念するに至る。この封じ込めに陰画として対応するのは、日本人でない者をこれまた一枚岩的な均質な他者として表象し、しかも彼らを共感不可能な、異質な「外人」として排除することであり、われわれのナショナル・アイデンティティは他者たちのアイデンティティを犠牲にしてはじめて成り立つのである。国民共同体への帰属とは、こうした排他的種的同一性のうちに組み込まれることにほかならず、そのことによってわれわれの内なる多様性が押し殺されるとともに、外なる他者たちとの共存の可能性もまた絶ち切られてしまう。たとえば「単一民族国家」としての日本という神話的言説もこうした脈絡で生み出されるのだが、それが「在日」朝鮮・韓国人、外国人労働者、アイヌ民族、琉球民族などの姿を、われわれの目から覆い隠してしまうことになるのも、これまた当然の帰結だと云えよう。


2.日の丸の「物語」

 さて、かつての大日本帝国の国旗であり国歌であった「日の丸」と「君が代」が、戦後もそのまま受け継がれているということには、重大な問題が潜んでいると思われる。もしナチのハーケンクロイツが今日のドイツにはためいているとすれば、異様な光景と云うべきだろう。そうした異様な光景が、日本ではなお目(ま)の当たりにされるのである。問題は、「国体は護持された」と言わんばかりの戦前・戦後の連続性が「日の丸」と「君が代」に如実に体現されていることにある。たとえば、帝国陸軍教育総監部が1933年に発刊した「日章国旗に就て」にはこう述べられていた。「我が日章旗は日の本を象徴し、我が日の本の國は天津日嗣(あまつひつぎ)の大君(おおきみ)のしろしめす神聖尊厳なる國家にて、日章旗は我が國體の象徴であって、國旗を尊重すること即ち皇室の尊崇であり、國旗を尊重すること即ち國體の擁護であるといふ深遠なる意義が含まれてゐる」。ここには「日の丸」に籠められた国家神道的な「物語」が語り出されている。戦後のわれわれにとって、そうした物語はもはやその神通力を失ってしまったのだろうか。その「前文」で「主権在民」を高らかに謳(うた)っていた新憲法にしても、その第1章は、「主権在民」についてではなく「日本国民統合の象徴」たる天皇についてのものであり、「天皇制」は形を替えつつも巧妙に延命し、「天皇の赤子」としての日本国民という神話もまた再生産されているのである。「日の丸」と「君が代」は、そうした「国体の護持」を象徴するもの以外ではない。まさに「君が代は千代(ちよ)に八千代(やちよ)に」なのである。

 戦前の或る国定教科書にはこうも記されていた。「敵軍を追ひはらって、せんりゃうしたところに、まっ先に高く立てるのは、やはり日の丸の旗です。兵士たちは、この旗の下に集まって、聲をかぎりに〈ばんざい〉をさけびます。日の丸の旗は日本人のたましひと、はなれることのできない旗です」(『初等科修身・1』1942年)。たとえば1937年の南京城に翩翻(へんぽん)と翻った「日の丸」の下で犯された数限りない虐殺と強姦──そこで行われたことの凶々(まがまが)しさを、はたして今日の「日の丸」、たとえば長野オリンピックの「日の丸」は免れているのだろうか。「白地に赤く、日の丸染めて、ああ美しい、日本の旗は」とわれわれは歌うことができるのだろうか。この旗に染み込んだ汚れに思いを致すなら、そう歌うことはけっしてできないと思われる。むしろこの旗が示唆するのは、歪曲し隠蔽しつづけてきた「戦争責任」の問題にわれわれがまず向かい合わなければならないということであろう。

 ところで、まずわれわれ自身が「日本人」という責任主体であることを認めなければ、「戦争責任」を問い質(ただ)すことも可能にならないのではないか、との疑問が生じるかもしれない。こうした考えを抱くのであれば、自らが「国民」として排他的種的同一性のうちに取り込まれることを拒むこと自体が問題だということになろう。しかし、こうした考えは、たとえば韓国で催された戦時中の朝鮮人の強制労働や従軍慰安婦の話を聞く会に出席し、号泣しながら「そんなことがあったなんて知りませんでした。許して下さい」と語った或る日本人青年の発言に示されるような、個人と国民国家の過剰な同一化に由来するものでしかないように思われる。この善意に満ちた青年は、或る意味で国民国家によって仕掛けられた巧妙な罠に嵌(は)まってしまったのではなかろうか。だとすれば、問題はむしろ、個人の国家への同一化を強(し)いる「国民国家」なるものの脱構築にこそあるはずである。私見では、「国家」の成立原理を"nationality"を超えた"citizenship"に求めつつ、「国家」なるものを、"nation"という種的同一性を前提としつつ作り上げられる"nation-state"としてではなく、むしろ諸個人が"citizen"として互いの異他性を許容しつつ「契約」によって作り上げる"republic"として再構築する可能性こそがあらためて模索されねばならない、と考えている。いずれにせよ、われわれが「他者」たちとの共生の可能性を見出しうるのは、「国民」としての自らの排他的なありかたをわれわれが克服しとき以外にはないはずである。してみると、逆説的ではあるが、「日本人」であることを拒む「非・国民」としての立場のなかにこそ、「日本人」としての戦争責任を問う可能性もまた見出しうるのではなかろうか。


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