メデューサの笑い

 ──「カラー・オブ・ライフ」封切りによせて


魚住洋一 


 「賢者は恐れおののきながらでなければ笑わない」とボードレールは書いている。賢者が笑いながら恐怖を感じるとすれば、それは彼の知恵をあざ笑うかのような狂気、笑いの背後に潜む反ロゴス的な狂気のためかもしれない。──ロゴスとは言葉であり、法であり秩序である。根無し草のわれわれが狂気に陥らず生き延びることができるのは、おそらくロゴスとしての秩序や法が作り上げられたことによるのだろう。しかし、でっち上げられたものにすぎないこの秩序あるいは法は、無秩序あるいは無法を可視化することによってしか成り立たず、そのためこの秩序や法から食(は)み出すものとして排除されるスケープゴートがつねに求められることになる。そして、古来、笑いをもたらす道化(フール)であったのは、畸形や不具にせよ乞食にせよ狂人にせよ、共同体の外部へと排除されたこうした者たちであった。彼らが笑いを巻き起こすとすれば、それは彼らの存在そのものが常軌を逸しているからである。彼らの破天荒な言葉や仕草は、共同体の外部から発せられるものとして、共同体の法と秩序を無意味化しかねない毒と狂気を撒き散らす。だからこそ、笑いは恐怖に似ているのである。

 笑いの背後にこうした排除の構造が隠されているとすれば、差別や抑圧があからさまに横行していればいるほど、道化は笑いを惹き起こす起爆力をもつことになる。だから、差別や抑圧が偽善的にもひた隠しにされた現代社会では、そうした笑いはもはや見られないのかもしれない。

 かつては「悪所」とされた芝居小屋で河原者たちが演じる芝居に笑いの渦が巻き起こっていた。しかし、そうした芝居小屋も影を潜めた現代日本のプチ・ブル的状況のなかで、安上がりに視聴率を稼ごうとするだけのテレビやもはや斜陽産業でしかない映画に笑いを求めること自体が、どだい無理な注文なのだろう。特にテレビのバラエティ番組では、使い捨てのお笑いタレントたちがワンパターンで繰り返す素人芸ばかりが目につくようになり、喜劇の笑いはテレビの画面からはいつしか失われてしまった。

 そうしたテレビの深夜番組に「バミリオン・プレジャー・ナイト」が登場したことは、喜劇に飢えていた私にとってはいささか刺激的な出来事だった。バラエティ・ショーの形式をとりつつも、これはヴォードヴィル的な台詞の掛け合いと体技による従来の喜劇とは異なり、映像と音楽によるブラック・コメディという新ジャンルを切り拓くものであった。この番組が醸(かも)し出すブラック・ユーモアの笑いは、出演者たちの演技というよりは、それらが映像やサウンドと織り合わされて作り上げられるモンタージュによるものである。だから、ここでは役者は不用であり、お笑いタレントなど一人も登場しないばかりか、たとえば「フーコン・ファミリー」では、人間の代わりにマネキン人形が役を演じることにもなる。もちろん、石橋義正たちのこうした企ては、「狂わせたいの」や「キュピキュピ・ワンミリオン」ですでに実験済みのものではあったのだが。

 石橋たちのこうした企てから思い出されるのは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』である。彼がそのなかでとりわけ語ろうとしていたのは、演劇においては役者を包むアウラの消失となって現われるような芸術の凋落の危機をむしろ逆手にとって、役者たちをまるで小道具のように使いながら、モンタージュという手法を駆使しつつ、現実の模倣(ミメーシス)ではなく映像と音響の遊戯(シュピール)として芸術の再興を企てようとする映画の出現についてであった。ここ日本においても、かつてはアウラを放っていたかもしれないコメディアンとしての役者の肉体がもはや死に瀕しているとすれば、喜劇の笑いを蘇らせることができるのは、ベンヤミンが語るような意味での映画以外にはない。そうした可能性を石橋たちの企てはたしかに示してくれたように思われる。

 ところで、「笑いは恐怖に似ている」と私は書いた。そうした笑いを石橋たちの作品に感じるとするば、それは「狂わせたいの」以来繰り返し登場する女たちの映像からである。たとえば「狂わせたいの」では、つげ義春的な夜の場末を舞台に、ほこら女や電車女、タクシー女や女医や面会女の狂気が、山本リンダの同名の曲さながらに一人の男を翻弄するが、「キュピキュピ・ワンミリオン」や「バビリオン・プレジャー・ナイト」にも彼女たちに連なる女たちが何度も登場してくる。「バビリオン・プレジャー・ナイト」に限っても、「唄う六人の女・まないた」の古い民家で料理を作りつつ唄う六人の和装の女たち、「スターシップ・レジデンス」のレーザーガンを撃ちまくる凶暴な三人の女宇宙人、あるいは「ワンポイント英会話」でキセル片手に婀娜(あだ)な姿で横たわり"You turn me on."(そそるわ)"You make my juices flow."(濡れちゃう)などとのたまう花魁(おいらん)など、彼女たちの姿は、石橋義正がイメージする男根中心主義(ファロセントリズム)的なエロティシズムの枠を打ち破って、妖艶な肢体を見せつけつつも、ペニスを噛み砕かんばかりの欲望する女とでもいうべきイメージを期せずして示している。そういえば、「狂わせたいの」の男にせよ「スターシップ・レジデンス」のエイリアンにせよ、なぜか男たちは皆気弱で、男の去勢を象徴しているかのようである。石橋たちの企ての斬新性を支えているのは、実は女たちのしたたかな反逆のせいかもしれない。注目すべきなのは、ここで映像化されたような、男たちを石と化してしまう女たちのこうしたメデューサの視線ではないかと思われるのである。

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