美術館の「外部」?

 ──「バミリオン・プレジャー・ナイト」をめぐって


魚住洋一 


 一昨年の夏から半年、テレビ東京とテレビ大阪で放映されたバラエティ番組「バミリオン・プレジャー・ナイト」は、深夜帯でありながら好評を博し、今年は「カラー・オブ・ライフ」と題した映画版が封切られ、また、このバラエティ番組のなかで人気が高かったシリーズ「フーコン・ファミリー」は各国の映画祭にも出品され、現在その続編「オー!マイキー」がテレビ東京とテレビ大阪で放映中である。

 「バミリオン・プレジャー・ナイト」は、映画「狂わせたいの」の製作によって、さらには映像+パフォーマンスユニット「キュピキュピ」の主宰者として知られる映像作家石橋義正が監督し、多くのアーティストのコラボレーションにより、さまざまなメディアを駆使して作り上げられたオムニバス形式の番組である。

 この番組を見る者が感じるのは、「モンティ・パイソン」を想起させるようなブラック・ユーモアの笑いであろう。しかし、これがコメディだとしても、笑いが惹き起こされるのは、役者の台詞や体技によってではなく、ナンセンスな映像とアップテンポな音楽の競合によるものである。たしかに、役者の代わりにマネキン人形を用いた「フーコン・ファミリー」や「オー!マイキー」には漫才の掛け合いにも似た言葉の笑いがある。しかし、古い民家で和装の女たちが唄いつつ踊る「唄う六人の女」、長屋の主婦たちのとんでもなくハイスピードな動きをスローモーションで撮影した「主婦マニア」、あるいは、007ばりの女殺し屋たちやサディスティックな女医が登場する「クイック・ガール」、「Dr.フェロー」などでは台詞は極度に切り詰められており、そこに見出されるのはプロットの論理を解体し、ロゴスとしての言葉を超越するような、映像と音楽が織りなすハイパー・リアルな世界なのである。

 ここで、これははたしてアートなのかそれともエンターテインメントなのか、と問うことは無意味かもしれない。近年美術界に溢れかえるビデオ・アートにはきわめて冗長で退屈なものが多く、しかもそれを笑いさえ禁じられた美術館やギャラリーで立ったまま見なければならないことを考えれば、エンターテインメントの意図を鮮明にした石橋たちの企ては対照的な位置を占めるものであろう。たとえば「歌謡ショー」などのキュピキュピのライヴ・パフォーマンスにしても、それが演じられるのは劇場ではなくカフェやバーであり、観客たちは飲み食いし、お喋りしながらショーを見るのである。アート作品を美術館やギャラリーからその「外部」へ、お茶の間や映画館やサイバー・スペース、カフェやバーへと連れ出す企ては、同時に「アート/エンターテインメント」という線引きそのものへの問い掛けにつながるのではなかろうか。

 「美術館という言葉は、見る者が生き生きとした関わりをもてなくなったもの、死滅しつつあるものを指している」と語り、「美術館は芸術作品の墓場である」と述べたのはアドルノだが(1)、石橋たちの企てに示されるように、いまやアートは美術館という「墓場」から逃れ出て、見る者たちとの「生き生きとした関わり」の回復を模索しつつあるともいえよう。

 しかし、このことをポジティヴにのみ評価することはできない。たとえば井上明彦は、どれほどアートが美術館の外へ出ようとも、アートにはつねに美術館が刻印づけられており、美術館の外部へのアートの氾濫はむしろ、美術館の外部もまた美術館化しつつあることを物語っている、と述べていた(2)。彼が述べようとしていたのは、レモ・ギディエリのいう「全面的審美化」(esthetisation generalisee)であり、現代の消費社会においては、美術館の内であろうが外であろうが、展示的価値が前景化され、すべてのものが審美的対象として消費されているという、まさにそうした状況にほかならない。

 だとすれば、石橋たちの企てもそうした状況の反映にすぎないかもしれない。彼らもまた、アートの商品化、商品のアート化の最前線に位置しているのだから。しかし、美術館という「制度」を乗り越え、美術という「枠」を破壊しようとしたかつてのアヴァンギャルドの反逆精神はもはや無効となってしまったのだろうか。石橋たちの作品が醸し出すブラックな笑いのなかにアヴァンギャルドの息吹きを微かながら感じ取ることができるとしても・・・・。

(1)テオドーア・W・アドルノ「ヴァレリー・プルースト・美術館」『プリズム』法政大学出版局、一九七〇年、一四七頁。

(2)井上明彦「美術館の寓意──美術の場所をめぐって」『理想』第六五六号、理想社、一九九五年、一一六頁以下。

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