対自と対他の弁証法

 ──ジャン=ポール・サルトル『存在と無』


 サルトルという名は、戦中から戦後にかけてのフランスの思想界・文学界において一世を風靡した名であったが、七〇年代の構造主義の台頭とともに、彼のいわゆる実存主義は清算されるべき〈主体性の哲学〉として一顧だにされなくなってしまった。「われわれの時代の乗り越え可能なもの、乗り越えられたものの一切は、ジャン=ポール・サルトルと呼ばれる」と語ったのはデリダだが、彼のこの揶揄めいた言葉には、逆に現代フランス思想がサルトルとの対決なしには形成されなかったことが暗に示されている。

 彼の『存在と無』が批判されたのは、その表題に示される存在と無の関係が、短絡的にいわゆる〈即自〉としての事物と〈対自〉としての意識との対立と見なされたためであろう。つまり、対自を純粋な否定性として即自に対置させる極端なデカルト的二元論、「存在はある、そして無はない」という存在と無の両極性のみがそこから読み取られたのである。たしかにサルトルは、「自己自身においてある」即自との対立において、「自己自身にとってある」という仕方でつねに自己から離脱する〈脱自〉の運動のなかに対自としてのわれわれの〈自由〉の根拠を求めようとしたのであり、「私は考える、ゆえに私はある」として意識と存在を等置するデカルトのコギトのテーゼを真っ向から否定し、意識と存在の不一致を標榜したところにサルトルの面目があるとすれば、そのかぎりでそうしたサルトル解釈は的を外してはいない。しかし、ではなぜ彼は、対自を定式化するとき、端的にそれは「ない」と言い切らず、「それがあるところのものではあらず、それがあらぬところのものであるような存在」という屈折した言い回しを用いたのだろうか。この定式は、対自が〈無〉というよりはむしろ存在と無の〈間〉であることを物語っている。

 ところで、この屈折は、「自己自身にとってある」対自が同時に「他者にとってある」対他でもあるということに由来すると思われる。「〈私は考える〉というのは間違いだ。〈ひとが私について考える〉と言うべきだ」と語ったのはランボーだが、サルトルにとっても、〈私〉の自己同一性をたえず瓦解させる脱自の運動のなかに突如自己同一的な〈私〉を打ち立てるのはまさしく他者である。私が他者の眼差しに晒されたとき、「あるところのものである」私、即自化した私が忽然と姿を現すのである。これはきわめて逆説的な事態であって、つねに私から擦り抜けていき自らの力では決して私を手に入れることができない私のまえに他者が現れ、これこそオマエだと〈私〉を見せつけるが、それは他者にとって存在するかぎりでの私として、私ではなくむしろ他者のものとなった〈私〉である。つまり、他者は私に存在を賦与してくれると同時に私から私を強奪してしまうのである。してみれば、私には他者の手中に絡め取られた私から再び逃れ去るよりほかに手立てはないことになる。いわば私は「対自が対他から、対他が対自からたえず逃げ去る鬼ごっこ」、実存と存在の相克のなかで翻弄されつづけるのである。

 さて、〈ある〉と〈ない〉の間で引き裂かれているとすれば、私にはそこから逃れる術(すべ)はあるのだろうか。サルトルは、「あるところのものである」誠実さなど望むべくもないわれわれに残されているのは「それであらぬためにそれである」自己欺瞞だけだと述べていた。だとすれぱ、〈ある〉と〈ない〉の間隙を擦り抜けて〈私〉を救う道は、「ふりをする」演技によってこの〈私〉を〈仮象〉と化するほかにないであろう。フーコーがサルトルに言及しつつ語ったように、「自己がわれわれに与えられないという観念から出てくる唯一の実践的帰結は、われわれが自らを一個の芸術作品として創造しなけれぱならないということ以外にない」のである。存在と無の〈間〉に浮かび上がり、存在にとっては無であり無にとっては存在である〈仮象〉にこそ、サルトルの『存在と無』が到り着いた帰結が見出されるのではなかろうか。『存在と無』の対他存在についての叙述は従来の読解では読み取られなかった可能性を秘めていると思われる。

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