フィクションとしての〈私〉

  ──身体・感情・無意識


魚住洋一 


身体

 或る分裂病質(スキソイド)の男の話からはじめよう。彼は或るとき暴漢に襲われ棍棒で殴られるという災難に遭った。ところが彼は、「俺の体をいくら殴ったところで、俺に危害を及ぼすことなどできないんだ」と嘯(うそぶ)いていたという。彼はひとから傷つけられるのを恐れ、演技によって作り上げた贋物の〈私〉で本物の〈私〉を覆い隠していたのだが、最後には、ひとの目に晒され、ひとと触れ合うその体をも、贋物の〈私〉として切り捨ててしまうのである。彼の〈私〉は天使のように脱身体化された〈私〉であり、だから、いくらその体を殴っても彼にはまったく危害は及ばないのである。

 奇妙な話かもしれない。しかし私たちもまた、この男のように己れを己れの身体から切り離し、内と外、心と体、主観と客観を分断しているのではなかろうか。「われ思う、ゆえにわれあり」というテーゼこそそうした考え方の集約的表現である。デカルトがこう語ったのは、彼が疑いうるものをすべて疑い、世界や身体の存在も疑った末に、疑っているこの私の存在だけは疑いえない、と宣言したときのことである。だから、彼の〈私〉とは世界も身体も剥ぎ取った純粋な〈私〉、純粋な内面性なのだ。──しかし、純粋な内面性などというものがはたしてありうるのか。世界や身体を捨て去り、何もかも捨て去っていけば、結局何も残りはしないはずである。

 さて、一方で〈私〉を純粋な内面性として措定するデカルトは、他方では私の身体をただのモノ、ゼンマイ仕掛けで動く自動機械として措定する。ここに近代医学の端緒が開かれるのだが、身体を機械として管理しようとする企ても同時に始まる。身体は機械なのだから、効率よく作動させるには厳密に管理されねばならないというわけだ。軍隊では教練によって一挙手一投足に至るまで動作を矯(た)められるし、工場では厳密な作業手順に従うことを強(し)いられるが、学校や家庭においても、躾(しつけ)や身だしなみや衛生という名のもとに厳密な身体の管理が求められていく。フーコーの〈規律=訓練〉(ディシプリン)概念が示すような、身体を〈従順な身体〉に改造する調教の始まりである。たしかにこの企てはカントの〈自律〉(アウトノミー)という近代的理念に適ってはいるのだが、自らの身体を〈従順な身体〉として管理することで、結局は私が私を管理し、自らすすんで権力の奴隷に成り下がる顛末になるだけではなかろうか。

 ところで、フーコーが語ったのはいわば〈生産〉のための身体についてである。しかし、身体はこの消費社会にあってはむしろ〈消費〉のための身体になってしまったのではなかろうか。私たちは、流行のファッションで着飾るだけでは飽き足らないのか、ブラジャーやコルセット、ダイエットやエアロビクスでシェイプ・アップを図り、そして痩せたいという欲望は多くの拒食症患者さえ生み出している。私たちの周りには化粧品やボディ・ケア商品、健康食品や薬品類が溢れ、私たちはさまざまな商品やサービスを買い込んでこの身体に夥しい投資をしている。いつのまにか私たちは、衣装を身に纏(まと)うように身体を纏うようになり、身体はそのボリュームと実体性を失って、私たちを包むもう一枚の薄い皮膜、第二の衣服になってしまったかのようである。現代においては身体はモードとファッションのコードによって解読される記号となって、消費される夥しいモノの流通過程に組み込まれている。消費されるモノ、示差的記号となった身体──たしかにそれは私の身体なのだが、〈私〉はもはや身体の内部にその存在の座をもつのではなく、身体の表層でそれが織りなす意味作用によってかろうじてその姿を現わすだけである。たとえば「ファッションが女の生き方なら、下着は女自身です」というワコールのコピー──ここに見出されるのは、ファッションや下着というかたちで購入され消費されるだけの〈私〉である。

 デカルトが華々しく宣言したあの近代的〈私〉はどこへ行ってしまったのか。体のない(ノーバディ)〈私〉は、いわば誰でもない(ノーバディ)のであって、機械として管理され、記号として消費される身体の表層に掻き消えてしまったかのようである。


感情

 「私には、ただ一つ頼みになる道案内がある。それは一連の感情のつながりであり、それこそが私の存在の連続性をしるしづけてくれるのだ。・・・・私の告白の本来の目的は、生涯のあらゆる境遇を通じて、私の内部を正確に知ってもらうことである。私が約束したのは魂の歴史であり、それを正確に知ってもらうためには・・・・ただ自我の内部へ戻っていけばそれでいいのだ」。──ルソーの『告白』の一節である。ここで表明されているのは、〈私〉を〈私〉ならざるものから峻別してくれるのが、外部からは窺い知れない密やかな〈私〉の内面性であり、そして、この内面性にそのかけがえのない具体的内実を与えてくれるものこそ、私の存在の連続性をしるしづける〈一連の感情のつながり〉だ、という信念である。ルソーは、われわれは考えるよりも先に感じるのだ、と語っていたが、いわば彼は、デカルト的〈私〉の無記名な非人称性を、それぞれの〈私〉に固有な感情生活の一人称性によって実質化しようとしたのであり、ルソーの『告白』が近代小説の草分けとされるのは、〈感情生活〉というものをありありと描き出すことによって、〈個〉としての〈私〉という近代的理念にその具体的内実を与えたからなのである。

 しかし、このことの背景をなしているのは、むしろ近代における公私の分断のように思われる。伝統的な共同体(ゲマインシャフト)の崩壊によって、生産性の論理だけが支配する制度化された〈公〉の領域が成立するとともに、それから零れ落ちた残余が〈私〉の領域へと取り込まれていった。たとえば制度的な社会関係には組み入れられない恋愛関係や家族関係がそうであって、それらの関係においては、伝統的な掟や規範が効力を失うにつれ、抑えの利かない剥き出しの感情がアモルフォスに噴出してくる結果ともなる。にもかかわらず、〈公〉の社会関係のなかでは自らを労働力商品として画一化せざるをえない人々は、そうした感情の混沌状態のなかにこそ個としての〈私〉に固有な姿を求めようとしたのである。──かつては感情さえも伝統的なエートスによってその表現形態を定められ〈公〉の領域に組み込まれていた。それが、その制度化されたありかたから解放されるにつれて、〈私〉のなかにいわば感情の自然状態ともいうべきものが見出されるのはごく当然の成り行きかもしれない。しかし、この感情の自然状態とは一種の虚像であり、公私の恣意的分断のなかで、〈告白〉というかたちであえて名指されてはじめてその姿を現わしたものではなかろうか。キリスト教の懺悔から心理小説へ、さらには精神分析へと至る〈告白〉という制度によってこそ、制度に収まりきらないはずのさまざまな感情、とりわけ性的な感情が姿を現わしたのであり、そうした感情によって構成される〈私〉とは、結局、制度上の産物にすぎないとも云えるだろう。

 このことは、夏目漱石や志賀直哉や永井荷風など、明治から大正にかけてのわが国の小説のなかにもその具体例を見出すことができよう。彼らの作品では、いまだ感情というかたちをなさないような鬱屈した不機嫌さが執拗に描かれているが、この不機嫌な気分は、山崎正和も指摘しているように、彼らが伝統的な規範から解き放たれた感情のなかに〈私〉のありかを求めつつも、シーソーのように揺れ動く不確かな感情を前にして、〈私〉を探り当てることができぬさまを言い表している。たとえば島村抱月も、「今は懺悔の時代である」と宣言しながら、「自己といふ其の内容は何と何とだ。自己の生を追うた行止りは何うなるのだ」と、その狼狽を隠し切れないでいるし、荷風もまた、「一体誰が吾々に向つて自己なるものを説き始めたのであらう。矢張り熱病だ熱病だ」といった語り口で、〈私〉なるものが「近代的と云ふあの熱病の結果」にすぎないと鬱憤を漏らすかのように語るのである。──しかし、彼らのこうした逡巡のなかにこそ、かえってデカルトやルソーの語るような純粋な〈内面性〉というものが実体のない虚構にすぎないことが証拠立てられているのではなかろうか。


無意識

 「われなきところでわれ思う、ゆえにわれ思わぬところにわれあり」というラカンの言葉は、精神分析が「われ思う、ゆえにわれあり」というテーゼを真っ向から否定するものであることを端的に示している。〈私〉の意識と存在を同一視するデカルトに精神分析が対置するのは、〈私〉の意識と存在の不一致、あるいは、自己同一的な主体としての〈私〉への死刑宣告のテーゼにほかならない。

 周知のように、フロイトは、失錯行為や夢や強迫観念など、意識の働きのみからは説明できない心理現象が見出されることから、意識の底に潜む無意識の存在を仮定した。しかし、彼のいう無意識とは、意識されはしなかったがいずれは意識されうる前意識などとは異なり、けっして意識されない意識の絶対的な〈外部〉なのである。たとえば夢にせよ、その内容は夢の思考としての無意識そのものではなく、意識の抑圧や検閲を受けて偽装されたものにすぎず、私たちは無意識そのものを意識することはできない。無意識とはまさに文字どおり無−意識であって、それが意識されることはけっしてないのである。してみると、〈私〉は自らがその上に築き上げられているその根底をついに手中に収めることはできず、いわば〈私〉の存在はその意識からつねに逃れ去ってしまうと云わねばならない。その意味で、私たちは無意識の発見によって、〈私〉の確かな根底を見出すことができるというよりはむしろ、〈私〉がその上に宙吊りにされた底無しの暗がりを見出すだけなのである。

 フロイトの〈無意識〉が多くの誤解を招いたのは、それがリビドーや欲動(トリープ)といったエネルギー論の言葉で語られることが多かったからではなかろうか。というのも、そうしたエネルギー論的、機械論的言説は、無意識をまるでモノのように実体化してしまうからである。しかし、〈無意識〉とはむしろ解釈学的概念であって、私たちは無意識をモノのように因果関係において確定することはできず、失錯行為や夢や強迫観念などさまざまな徴候や症状の解釈を通してその存在をおぼろげに推定することができるだけである。意識の虚偽の覆いを剥がせば、そこに意識を動かしている真の動因が発見できるなどと思い込んではならない。実際にあるのは、らっきょうの皮むきのような果てしもない解釈の謎解きの作業だけであり、そこには真の答えなどあるはずもないのである。たとえばラカンは「無意識は言葉のように構造化されている」と語っていたが、彼が語ろうとしたのは、無意識そのものが言語的な解釈の作業によってしか接近しえないものであり、互いの示差的関係においてしか意味を生み出さないさまざまな〈意味するもの〉(シニフィアン)の戯れのなかから〈意味されるもの〉(シニフィエ)として浮かび上がる無意識を実体めいたものとして捉えることなどできはしないということだったのである。

 してみると、現代においてフロイトやラカンを通俗化した陳腐で無内容な精神分析が蔓延(はびこ)っているのは、一種の皮肉である。フーコーの指摘をまつまでもなく、私の隠された秘部であり、それゆえ〈私〉そのものを形づくるはずのセクシュアリティの実体化が、キリスト教の懺悔を継承する俗流精神分析によって助長されてきたことは明らかである。ボードリヤールが語るように、現代の消費社会にあっては、マス・メディアが垂れ流す煽情的な性的メッセージによって喧伝(けんでん)される〈無意識〉の神話に私たちは翻弄され、セクシュアリティこそ〈私〉そのものだと盲信してファッションや下着や化粧品を買い漁り、ポルノグラフィまがいの言説や映像が与える贋物の性的快楽に酔いしれている。〈無意識〉は、今日ではその内実をことごとく剥ぎ取られ、消費社会の神話になってしまったかのようである。

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