太陽の讃歌と〈絶望〉

 ──アルベール・カミュ『異邦人』


 この小説が公刊されたのは、フランスがナチスドイツ占領下にあった1942年のことだが、それがたちまちにしてベストセラーとなったのは、アルジェリア生まれの作家によって書かれたこの小説が、鬱陶しい霧の立ち込める占領下のパリの人々に、異郷アルジェリアの日の光が燦々と降り注ぐ光景を提供してくれたからではなかろうか。──しかし、カミュは或る箇所でこう書いている。北国の陰鬱な空の下で生きる人々には光に満ちた異郷を夢見る〈希望〉があるが、光に満ち満ちた土地に住まう者にもはや〈希望〉はない、と。これはわれわれを戸惑わせる言葉だが、この言葉には『異邦人』という小説が描き出す世界が示唆されているようにも思われる。

 「今日ママンが死んだ」という有名な書き出しではじまるこの小説は、母親の葬儀の翌日、女と海水浴に行き、喜劇映画を観て笑いころげ、その女と同衾し、そして「太陽のせいで」一人のアラビア人を殺害し、処刑される男の物語である。主人公ムルソーが死刑を宣告されるのは、アラビア人を殺したためというよりは、検事が糾弾したように、母親の葬儀で涙を流さなかったためかもしれない。『異邦人』英語版序文で述べられているように、母親の葬儀で涙を流さない人間は〈異邦人〉として社会から葬られかねないのである。しかし、〈異邦人〉とは、誰のことなのか。この小説に続いて執筆された『シーシュポスの神話』の〈不条理〉(l'absurdite)という概念が、或る意味でその答を与えてくれる。なぜなら、この評論によれば、〈不条理〉とは世界からのいっさいの人間的意味の剥奪であり、馴染みのある愛する女の顔が突然異邦人のように立ち現れるこの世界の厚みとの断絶のことなのだから。カミュが描き出すのは、解き明かせない超越的〈意味〉に満ちたカフカの世界とは違って、すべての〈意味〉を失った無言劇の世界だといえよう。しかし、〈不条理〉という人間存在の偶然性を示唆するこの概念によって、カミュをサルトルとともに〈実存主義〉に一括することは、いささか強引にすぎる。カミュにとって問題だったのは、不条理の〈概念〉というよりはむしろ不条理の〈感情〉であり、たとえば〈死〉が不条理の端的な現われだとしても、彼にとってそれがそう感じられたのは、眩く〈生〉の輝きに照らされてのことだったからである。つまり、彼にとって不条理とは、アルジェリアの真昼の光の下ではじめて姿を現わす〈絶望〉のことなのだ。カミュは、サルトルに連なるというよりは、カミュのリセの教師でもあり、地中海世界の光芒を描き、彼を驚嘆させた『孤島』の著者グルニエを受け継ぐ作家なのである。

 こう考えてみると、時の流れを断ち切るように複合過去で書かれた『異邦人』の乾いた文体、「白いエクリチュール」と呼ばれる文体の謎も理解できよう。この小説が、ベルクソン的な〈持続〉の対極にあるような、そのつど完了する〈瞬間〉の非連続によって組み立てられているのも、そのつどの現在の〈生〉の充溢とその背後に広がる空無を表現しようとしてのことと思われる。母親の死の翌日に海水浴に行き、気が向けばトラックを追って疾走するムルソーは何の理由づけも求めない。結婚したいのかと恋人に尋ねられて「君がそう望むなら」と答える彼は、愛しているのかどうかを尋ねる彼女に、「そんな問いは無意味だが、おそらく愛してはいない」と答える。ここには、持続する「愛」などといった、そのつどの〈瞬間〉を超えて作為されるものへの疑いが示されている。この〈無垢〉のために、ムルソーは、作為によって織りなされる社会によって断罪されることになるのだが・・・・。

 晩年のカミュが、植民フランス人というアンヴィバレントな立場ゆえに、過酷な独立戦争が闘われていた〈祖国〉アルジェリアへの帰還もかなわず、寒々としたフランスで〈異邦人〉としてその短い一生を遂げることになるのは、いわば一種の皮肉であろう。

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