ないものねだりの/いわずもがなの

田村公江『性の倫理学』へのコメント

魚住洋一 


◆性の倫理学?

 「性行為の規範を語ればいいのだろうか?」と田村は言う(p.1)。田村は、「性の倫理学」を標榜しながら、テーマをきわめて制限し、狭い意味での「性生活」のみを扱っている。しかし、そのことの代償はきわめて大きかったと思われる。

 田村は、「性の倫理学」の名のもとに、既成の法や制度、社会規範をあくまでも前提したまま、個々の男女の性生活での「あるべき」振る舞いだけを問題にしようとする。結論として「よい性生活」を取り上げるのもそのためだろう。しかし、レイプやドメスティック・バイオレンスなどの性暴力、買売春やポルノグラフィーなど性の商品化、結婚制度や家族制度、同性愛差別などが問題化している現在、それらの問題を法や制度、社会規範そのものをも問い直すかたちで取り上げることが、フェミニズムやクイア・スタディーズだけではなく、「性の倫理学」にも求められているのではないか? ところが、問題を「個人倫理」に矮小化する田村の非政治的・非社会的な視点からは、そうした問題意識ははじめから蚊帳の外に置かれてしまうのである。たとえば「結婚」について、田村は、制度としての結婚の問題を「ここではその問題に入らない」とあっさり切り捨て、結婚とは「公認カップルになること」などと能天気に喋って、それで終わりである(p.111)。結婚や家族のありかたを問い質そうなどとはゆめにも思わない田村は、結局、現状肯定的な保守主義に加担することになるだけではなかろうか?

 また田村は、この著書で「性生活」を取り上げるに際し、性生活のありかたを「倫理学的」に問い質すのではなく、むしろ「道家的」にあるべき性生活の「倫理」を説こうとする。 これは、倫理学なのだろうか? たとえばギブソン松井佳子は、「最終的には、性のパートナー同士が、互いに相手の体を慈しむことが大切なのではないだろうか」という本書の結論の言葉(p.158)を引用しながら、「セクシュアリティの不可解な謎がモラリスト的教訓言説で終止符が打たれることになにか違和感をもってしまう」と語っているが(現代倫理研究会例会(2005年3月5日)での発表レジュメ)、同感である。こうした道家風の「お言葉」に満ちた書物を読むことに、私はいささか不快感を覚える。

◆田村自身の「なまペニス信仰」

 田村は、「なまペニス信仰」あるいは「去勢不安/ペニス羨望」が、男女のよきありかた、よき性生活を妨げる元凶だと述べるのだが、それでいて、彼女は、「なまペニス信仰」を否定するわけではない。──「男性たちは、女性のためだけでなく、自分のためにも〈なまペニス信仰〉を緩めてはどうだろうか(信仰を捨てろとは言わない)」と田村は書いたりするのだから(p.84)。

 ところで、田村のこの煮え切らない曖昧な態度は、この本を読んでいくと、むしろ田村自身こそ「なまペニス信仰」の信奉者だということにその理由があることが分かる。たとえば田村は、性的快楽を「萌え」というコミック・アニメ言葉で説明しようとするが、彼女によれば、「萌え」は、「攻め/受け」、「能動/受動」が男女間にあるところで生まれるという。そして「もっともストレートな能動と受動は、〈挿入する/挿入される〉の組み合わせである」ということになる(p.69)。男は「攻め」で女は「受け」といったこうした語りから明らかにされるのは、性的欲望のありかたを「男=能動的/女=受動的」と決め付け、性行為を「ペニスのヴァギナへの挿入」に矮小化し、「挿入する/挿入される」こととして以外考えることができない男根中心主義(phallocentorism)に田村が頭の芯まで毒されているということにほかならない。女の性的快楽が「ペニスのヴァギナへの挿入」などに尽くされないことは、シェアー・ハイト『ハイト・レポート』(1976年)、『モア・レポート』(1980年、1987年、1998年)などのなかですでに女たちが繰り返し語ってきたことではないか。

 「攻め/受け」、「能動/受動」でしか性的快楽のことを考えられない田村にとって、あるべきセックスのありかたが"SM"プレイでしかないのも、当然の成り行きだろう。男というものは「俺のペニスで女を征服する」ことに「萌え」を感じるとされ、男の女に対する「暴力」もそうした男の「なまペニス信仰」に由来するとされる。しかし、田村によれば、男はそうした信仰を「捨てられない」のだから、結論は、「信仰を緩めて」、「強姦プレイ」では女性の「同意」を求めましょう、といった珍妙なものとなる(p.71f.)。そして、田村は、「なまペニス」が快楽の源だというのは間違っていると言いながら、「女性たちは〈受け〉キャラの無限の官能を望んでいる」と言うのだから(p.81)、これでは女性の快楽も「裏返しにされた男性性器」(リュース・イリガライ)の快楽でしかなく、「なまペニス信仰」から一歩も出るものではない。

 また思わず笑ってしまったのだが、「処女性」について田村は、「あなたに私の一番大切なものをあげるわ」という山口百恵の「ひと夏の経験」ばりに、何とそれは「宝物」(!?) なのだと言う。レイプを「汚れ」、「辱め」と捉えることを女性に「純潔」を要求する文化的圧力だと言いながら、「セックス」を「(男が女の)宝物を手に入れること」と自ら語ることが、そうした文化的圧力に加担する行為だと田村は自覚すらしない(p.16)。だから、なぜそうした文化的圧力が存在するか、を田村は問うこともしないのだ。

◆精神分析の「お言葉」

 田村のこの著書ではラカンの「お言葉」が、文字通り「お言葉」として、随所に引用されるが、とんでもないコンテクストで引用されるので、つい笑ってしまう。たとえば田村は、「〈結婚は愛の墓場〉などという言い方はこのこと〔=「性関係はない」〕を警告しているのかもしれない」(p.122)と言ってみたり、結婚における「貞節の義務」(!?)の「深い意味」とは、「人生を共にすると誓った二人は、性関係の不可能性にもともに向き合うべきであり、そこから逃げようとするのは卑怯な振る舞いなのである」(p.122)と言ってみたりする。しかもカップルが「性関係の不可能性」に直面するのは、田村によれば、「倦怠期」らしいのだ。田村は真面目に書いているのだろうか?

 男根中心主義者でラカン教信者の田村は、ラカンの言葉を鸚鵡返しにしつつ、「性別は原−分節だ」と決め付けるばかりで、「ペニスが付いている/付いていない」で人間を「男/女」に恣意的に分割するこの社会の「作為」をそこに見ようともしない。彼女にとって、「解剖学は宿命」(フロイト)なのだろうか?「セックスはつねにすでにジェンダーである」と語るジュディス・バトラーなど、80−90年代の第3派フェミニズムは、性別を脱−自然化し「男/女」という分割そのものを脱−構築しようとしてきたというのに、田村の言説はそうしたフェミニズムに対する単なる反動でしかない。田村のこうした教条主義的な語りは、男を男に、女を女に縛りつける役割しか果たさないのではないか? フェミニズムは、「女の解放」とともに「女からの解放」を目指しているというのに……。

 ラカンの「お言葉」を「お言葉」として忠実に伝えているだけならまだしも、ラカンに忠実であるならば平気では言えないはずの「なまペニス」という言い方を田村は乱用する。ラカンに従えば、象徴界に巻き込まれ、言語に囚われた人間は、すべてが「なま」であるような「本能」の世界に生きてはおらず、すべてが「なま」ではありえず、すべてが「代補」でしかない「言語」の世界に生きているのだから。だからこそ「性関係は不可能」なのだし、ラカンが問題にしたのも、「現実の男性器官」としてのペニスではなく、「欲望のシニフィアン」としてのファルスなのである。田村の「なまペニス」という言葉の乱用一つを取っても、それが本書の基本タームであるだけに、田村の言葉遣いのいい加減さ、粗雑さを感じる。

 田村のいう「男というものは」、「女というものは」という一般論は、ひどく空疎に響く。具体的な事例に即するのでもなく、彼女の思い込みをひどく抽象的に語っているだけだから。しかも、「女」についてのそうした一般論をめいっぱい語っておきながら、田村は「女性というものは存在しない」というラカンの言葉を引用しながら、「〈すべての女性は……〉という全称命題を作ることはできない」と平然と語ることもできるのだ(p.151)。

◆蛇足ながらも……

 「恋愛術」についても、田村は、「恋する/恋される」、「落とす/落とされる」、「振る/振られる」といったあまりにもお粗末な「能動/受動」のステレオタイプでしかものを考えられず、しかも「落とす」ためには「男らしく/女らしく」せよと、既成のジェンダー規範をそのまま持ち出してくるありさまである(p.90ff.)。「男女ともに既存のジェンダーを参考にして、相手に気に入られそうなキャラを演出するのが〈落とす〉テクニックの基本である」などという言葉を大真面目で語っているのを聞くと(p.93)、かなりしらけた違和感を覚えてしまう。田村が語るのは、恋愛を「落とす」ことに矮小化するような、恋愛についてのきわめて殺伐とした貧弱なイメージにすぎず、恋に陥るあの目眩めく感覚からは程遠いものでしかない。さらに言えば、「落とす」ためには「男らしく/女らしく」せよと語ったその当の田村が、「ジェンダーに含まれる男尊女卑」などと語りはじめるから、笑うに笑えなくなってしまったりもする。

 「房術」については、田村さん、古典ではヴァン・デ・ヴェルデ『完全なる結婚』(1926年)や謝国権『性生活の知恵』(1960年)、近年ではキム・キャトラル/マーク・レヴィンソン『サティスファクション』や加藤鷹、キム・ミョンガンの著作など、たくさんの本が出ているのだから、またしても「攻め/受け」で房術を語ろうとするあなたにテクニックをわざわざ教えてもらわなくてもいいよ、と言うにとどめたい。何か特にテクニックといえるようなことが書かれているわけでもないのだが……

 障害者や老人への恋愛やセックスの「援助」について、唐突に語られる箇所がある(p.95ff.)。田村はそうした援助をしてあげるべきだと能天気に言うが、それもどうするのか具体的な話はなく、勤務大学での「ノートテーカー」の話に摩り替えられてしまう。田村は、ノートテイキングをするようなノリで、障害者や老人にセックスをしてあげるとでも言うのだろうか? 障害者や老人に対するセックス・ワーカーによる性的サービスは現に行われつつあるが、今後それをどうすべきかについては、買売春の脱犯罪化=労働化など克服すべき問題が少なからずあり、田村のように軽々に論じることはできない。

◆性の倫理?

 「道家風」で「倫理的」なこの本では、逆説的にではあるが、月並みな「常識」以上のことがついに語られることがなかった「性の倫理」について、私が思い起こすのは、ミシェル・フーコーが「生の様式としての友情について」のなかで語っていた言葉である。フーコーによれば、同性愛は「制度内にショートを引き起こし、法や規則や慣習のあるべきところに愛を持ち込む」のであり、「性行為そのものよりも、同性愛的な生の様式の方がはるかに、同性愛を〈当惑させるもの〉にしている」のである。フーコーは「どのような関係が同性愛を通じて成立し、発明され、増殖され、調整されうるのか?」と問いかけ、「自らのセクシュアリティを関係の多数性に達するために用いること」が問題だと語る。「いまだに形を成さぬ関係を、AからZまで発明」しようとする同性愛者たちのそうした企て、フーコーの「いかにして一つのゲームを発明するか?」という問いかけにこそ、私は──「性の倫理」というものがもしあるとすれば──その呼び声を聞く思いがする(ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』哲学書房、1987年)。


補記

 田村公江『性の倫理学』は、加藤尚武・立花隆監修「現代社会の倫理を考える」シリーズの第12巻として、2004年、丸善株式会社から公刊された。

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